誰にも言えない痛みを抱えている人がいる

「百塚君ちが大変らしい」

息子が誕生した日の夕方、直ちに職場に連絡を入れ事情を話し、1週間ほどの休暇をもらいました。
そしてその話は、(恐らく)瞬く間に勤務先の病院内で広まり、多くの同僚に知られることになりました。

急遽いただいた休暇から復帰した頃、それまでそんなに深い話をしたことがなかったような先輩や同僚が、ポツリポツリと熱い言葉をくれたり、先輩や同僚自身の「人にはなかなか言えていない痛み」について話してくれるようになりました。

いつも淡々と仕事をこなしているように見えていた先輩が実は過去にお子さんが生死をさまよう病気をされていたり、別な先輩もお子さんの生まれ持った障害と付き合い続けていたり、あるいは流産を経験されて辛い経験を教えて下さった方もいました。

「この人も、あの人も、実はそんな痛みを抱えていたのか!」と衝撃でした。

「痛みを抱える当事者」になって初めて、他の当事者の人達から心を許してもらえることがある、というのを知りました。

だからこそ私は「当事者」の立場にいる政治家が、もっともっと増えるべきだと思っています。

自利だけを考えてきた政治屋や、エリート街道を進んできただけの政治家が、陰で泣いているような人に、真に寄り添えるとは思えないからです。

国や県、基礎自治体の長には、「当事者意識」をもつ人が就任することで、もっと優しい日本に出来ると思うのです。

私は、声を大にして訴えたい。

人の存在価値を語るとき、「人としての尊厳」と「生産性」を同列にしてはいけない、ということ。
「人としての尊厳」は、「生産性」に左右されない、もっと高い次元のもの。

今の、極端に自己責任論を押し付けてくる社会では「生産性」を失った時、その人に対して「死ねば良い」と言い放つ人間と、自分自身で「死にたい」と思ってしまう人が一定数います。

でも違います。

あなたは生きているだけで価値がある。
これ以上、頑張れなくても、頑張らなくても、あなたが【大切な人】であることに、変わりはありません。

私は、そう感じられる日本や富山県を創っていきたいと考えています。

県の施策のあらゆるものを、人権の尊重に根差したものへとシフトチェンジすることが、必要です。

「人には言えない痛み」には、政治ではどうにもできないものもありますが、政治で緩和できるものもたくさんあるのです。

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